情熱
みなさん王陽明をご存じだろうか。
中国の明代の大儒、軍人、政治家である。
「陽明学」をもって東洋思想に与えた功績は言うに及ばず、戦術・戦略においても不世出の奇才といわれた人物だ。
彼の「伝習録」のなかに次のような言葉がある。
戦時中、朝廷の指揮官として反乱軍を掃討していた合間の、
彼の弟子たちに向けた言葉であると、想像していただきたい。
(彼は戦の情勢がいかに険悪でも、陣中で弟子たちに講義をしていた)
「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」
「区々(私)が鼠窃を剪徐せしは何ぞ異とするに足らんや。若し諸賢心腹の寇を掃蕩して以て廓清平定の功を収めなば、これ誠に大丈夫不世の偉績なり」
意味は、大体こういうところだ。
もし諸君が、己の心の中に巣喰う賊「邪念・妄念・人欲」というものを掃討し尽くし、心を正せるのであれば、それこそまさに天下一の偉業である。
それに比べれば、私が目の前の賊軍を破るなどなんの、大したことではない。
彼がいう心中の賊とはなにか。
みんなならどのように考えるだろうか。
いろいろな解釈はあるが、
私はこれを「恐れ:fear」だと捉える。
自分を変えることへの恐れ。一歩を踏み出す恐れ。
私が自分の心の中に目を向けたとき、このような「恐れ」が見えてきた。
自分の本音から出た行動が、他者からの批判を浴びることへの恐れ。
勝負を仕掛けることで自分のプライドが傷つき、自信が揺らぐことへの恐れ。
コテンパンに叩きのめされ、敗者という二文字を傷口にすりこまれる恐れ。
立ち直れなくなることへの恐れ。
明日から、路頭に迷うことへの恐れ。
挙げれば挙げるほど、キリがない。
一方で、このような感情とは一見無縁で、細々と日々を安住している人もいる。
水曜の夜にネクタイを緩めながら、楽しそうにお酒を飲んでいる人たち。
それはそれで、悪くはないけど、彼らは何かから目を背けているようにも思える。
細流は、やがて途切れるのである。
合流し、同化され、消え去る。
その一方、大河は、この大地に極めて雄渾な一筆を残しながら、滾々と流れ去る。
自分だけの「偉業」を成し遂げたとき、人間はもはや細流ではなくなる。
人生、かくあるべし。